医療と無力感

なぜ、こんな病気になってしまうのか。どうして治らないのか。病気になってしまった人、その周りの人、誰もが思うその問いかけに答えるすべは、現在の医学を持ってしても決して多くはありません。いや、むしろ、「なんで私が・・・」という問いに答えることは、ほぼ不可能です。
CT、MRI、PETにシンチ・・・。高精度で高価な医学的検索がクリック一つでオーダー出来る。それにより得られた情報は莫大ですが・・・その情報量が多い分、たとえば癌の転移の程度など、その病気が今どういう状態か嫌でもある程度分かってしまう分、自分たちの行っている「医療」がいかに無力であるか、亡羊たる気持ちになることがあるのです。


一方で。


今の医学を過信している方の、なんと多い事か。なぜ自分は花粉症になるのか、どんな病気にこれからなるのか、採血一本すれば何でも分かると信じて疑わない人が、世の中には驚くほど多い。おそらくそれは、偏ったマスコミの報道による部分もあると思うのです。医療が、グルメや旅行番組と同じ「テレビバラエティ」の一つとして確立する昨今です。何千、何万といる世界中の研究者のうち、ごく一部の人が主張しているだけの学説ですら「新事実!」として人口に膾炙してしまうのです。医学を学んでいるわけではない人に同様の理解を求めるのは酷な話で、だからこそ、そういう情報は慎重に慎重を重ねてすべきだと思うのですが。しかも、その学説はむしろ業界では「トンデモ学説」であることも、なきにもあらず(控えめに言っても、です)。学会で相手にされないからマスコミに訴えるのでは?と思う同業の方も多いのではないでしょうか。


また、話はチョット変わりますが、以下はフィクションです。


とある総合病院の外来にて。診察医は患者さんの現在の病気がアレルギーによるものだとは考えなかったのですが、患者さんの強い希望で行いました。その結果を聞きに来た患者さん。まず、外来診療が15分遅れであったことに不満をもたれます。これは言い訳になってしまうのですが、全力でやっていても、思いがけず重症の方がいたり説明に時間を取られたりして、どうしてもそういう事は時折あります。でも待たせてしまったのは事実ですので、お詫びをしてから説明を始めます。さて、ここからが大変です。アレルギー検査の一つ一つについて説明するのはいいのですが、これからどういうアレルギーが起きるのかは神様でも分かりません。どういう症状で発症するのかも、臨床症状との100%の結びつきを説明するのは困難です。
可能な限り説明し、納得がいかないならばまた後日時間を設けて話しましょうとご説明しても、「予約を取った人間はその時間に満足するだけの診療を受ける権利がある、今話してもらえなければ納得しない」とのことで、結局その患者さんへの説明のために要した時間は一時間。そして次の予約で待っていた長く罹っている高齢の患者さんは結局1時間半お待たせしてしまうのです。次の患者さんに平謝りする自分に、「大きい病院だから仕方ないですよね、大丈夫です」と答えるその患者さんは、癌の手術後のフォローアップで長期通院されている方。なんていうか、もうホント、無力感でいっぱいです。なんですかね、このやり場のない気持ち。
得られる情報が増える分、そしてそれが専門的な検査であればあるほど、患者さん自身に分かりやすく説明するのは難しくなります。そしてそれには時間もかかる。でも、説明する自分は一人しかいない。自分が3人ぐらいいて、平行で外来できればいいのに・・・。


医療は、医学的な面でもシステム的な面でも、全然完璧じゃない。むしろ、細部まで精査出来る様になった分、実際の医療と患者さんの期待の開離が、大きくなっているような気がするのです。そしてそれを痛感する時にも、やっぱり亡羊たる無力感に打ちひしがれるのです。


それでもやっぱり。


「すっかりよくなりました!」って外来で嬉しそうに話してくれる患者さんや、どういう風に普段家で薬を塗ればいいか説明して、ちょっとずつ通院する間隔が伸びていって調子よくなるアトピーの患者さん、もう足の切断しかないと言われていた患者さんが、他科との協力もあって手術が成功し、元気に歩いてるのを街角で見かけたりすると、もう、それだけで心の中でガッツポーズ!!です。身内の病気が治った時のような情緒的な喜びとも違えば、「人を救う」というほどの高尚な気持ちとも違う、なんとも説明しがたい物なのですが、敢えて言うなら「充実感」でしょうか。自己満足もあるとは思うけど、そういう「医者的ヨロコビ」、あると思います。
ドラマみたいにゴッドハンドなスーパー手術する訳でもないし、権威があるわけでもない。淡々と暮らしているその辺にいるフツーの医者の多くは、多分、そんな小さな日々の「医者的ヨロコビ」をエネルギーにして、細々と頑張っているに違いない、と思うのです。